「白い巨塔」は原作も映像もわたしの好きな作品で、田宮二郎・財前は再放送を3、4回は見ていると思います。
唐沢・財前はラストを見そびれていたので、今回総集編の完結話を見ました。
肺ガンに倒れる唐沢財前には命に限りがある人間というものの弱さ、悲しさがよく表現されていて好感が持てたのですが、これならたとえば非常な善行に生きた人の最期でも、「まだまだやりたりなかった」と自分を責め、無念に暮れる、あるいは口惜しく思うのではないかと思われました。
こんないいかたは極めて不遜かもしれませんが、これでは凡庸なありきたりの人間です。
田宮・財前の権力と名誉の鬼と化したすさまじさ、それゆえの生へのおぞましいまでの執着とは対極にあるような感じがしました。
つまり財前はモンスターで悪のスーパースターだからこそ、その最期も素晴らしいのです。
とはいえこの現代、三十年以上も前のベストセラー小説をリメイクして、悪のスーパースターを医師にもとめること自体、不可能なことなのだとは思います。
なぜなら医師はもう当時ほど権力も名誉も得ておらず、またチームプレーのため、単独で患者を救う神になることも、メスで殺す鬼になることも、日常茶飯事的に医療ミスが苛酷に追求されるため、そうそうたやすくはできません。
となると、現代のモンスターとは、やはり猟奇的な性犯罪者ということになり、権力や名誉への執念に代えて、幼児などへの残虐な変態性欲に固執する輩たちということになります。
田宮財前とこれらの輩たちが生または性への、常人にはない鬼気迫る「迫真」を持ち合わせていることは事実で、ふと気がついてみると、それらに惹かれている自分を感じました。
おそらく作家の性なのでしょうね。
