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 和田のひとりごと 

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ボディ・コレクター 2004/03/21

これはカナダのサイコミイテリーです。
ボディ・コレクターですから殺して身体のパーツをツギハギするサイコパスの話です、いうまでもなく。

ただ肉親の情愛を受けずに育った少年が成人して、完全な家族を作るために、男女子どもを三十人近く殺してパーツを収集するというのは、何ともいただけない設定です。
捕獲した人間を飼っておく鳥かごみたいな拷問グッズもいまいちでした。

とはいえカナダ映画はフランス語で、主人公の捜査官の女性は小柄で丸顔の愛らしい美女でした。 それと『ツインピークス』を想わせる国境付近の町の風景がいいです。

丁寧につくられているし、役者も下手ではないのですが、所詮この手は『羊たちの沈黙』の追従という感は否めません。
最近サイコミステリー映画はアメリカ以外のそこそこの文明国でもつくられるようになってきていて、需要もあるのでしょうが、文明化がもたらす家族と教育の問題にはきっと普遍性があるのだと思いました。

  

悲しみのマーダーズケースブック
1 エド・ゲイン
2004/03/09

何年か前に購入した犯罪者実録を再読していく試みです。
当時はサイコブームも極まっていて、こうした出版そのものがモンスターの発掘のようではありましたが、今読み直してみると犯罪の手口や被害者の遺体の状態などの部分は色あせて、同じ人間として、ひたすら犯罪者の心の闇に疼く痛みと悲しみがひしと身に迫ります。

テレビドラマ『CSI』の「ミランダ」を見て気がついたのです。
猟奇殺人や凶悪犯罪を犯すサイコパスも、理解不可能なジェイソンのようなモンスターから、普通の人間として理解されようとしているような気がします。

『ミランダ』は性同一性障害であり、それを理解してくれない母親への抗議と、親の愛を得られない絶望から、次々に自分と同じ誕生日(何と母親も同じ)の男をえらんで偽装自殺を仕掛けて行きます。
こんな手の混んだことをするのは、捜査官のグリッソムもまた誕生日が同じであることを知っていて、最後には彼に理解を乞いたいためです。
このミランダはグリッソムが犯行のすべてを解き明かした時点で、やっと安らかに母親を殺し、自分も死ぬのです。

これにはとても感動しました。美化されすぎているとはいえ、これがサイコパスの花道ではないかと思ったからです。

1 エド・ゲイン 

ロバート・ブロックの『サイコ』がヒッチコックによって映画化され、世界の『サイコ』になりましたが、彼はそのモデルです。また、『羊たちの沈黙』のレクターのモデルでもあります。
プレインフィールドの屠殺人と言われ、『死霊のはらわた』を含むスプラッタ映画もこの事件の猟奇性、動物のように人間を解体して食べ、皮膚で洋服などを作っていた、を誇大させたものです。

エド・ゲインは農夫上がりの町の便利屋で、狂信的なキリスト教信者の母親と飲んだくれの父親の間に育ちました。
そのために母親は彼に、いつも男は罪深いと愛のない厳格さを押しつけ、友だちはすべて悪であると見なしつきあうことを禁止。
がんじがらめに管理した結果、ゲインは多重人格者となり、起こした事件だといわれています。

母親の死んだ後も引き続きその呪縛は残っていて、彼は殺したり、墓から盗んだりしてきた死体のパーツや皮膚と触れ合うことによってしか、もはや人間とはつきあえなかったのです。
これならおそらく母親の命を守っていると納得できたのでしょう。
ここで狂信的なキリスト教信者についてですが、母親はドイツからの移民で、石と砂だけのウィスコン州、プレインフィールドにあって、生き抜くためには先祖譲りの強い信仰が必要であったことは想像できます。

けれども時代はエログロのホラー漫画や暴力本の全盛期で、こうした僻地の農村にもその手の情報は流れてきていました。
現代、この日本の地方都市にも起きかけている新旧のすれちがい構造のように思えてなりません。
また母親の虐待ともいえる過剰管理についても、卑近なもののように思われます。

  

アカデミー賞雑感 2004/03/01

リアルタイムでアカデミー賞の授賞式を見ました。何年かぶりです。

緊迫する世界情勢を反映してか、全体に地味な印象で好感がもてました。
注目の『ロード・オブ・ザ・リング』が監督賞、作品賞を含む11部門の受賞で圧勝でした。

実はわたしこの作品はめずらしく昨年春公開の時に、劇場で見ているんです。
まあ、飽きさせない楽しいものではありました。
出てくるキャストは悪役以外全員美男美女です。ちょっといいすぎるとベルバラの世界制覇版です。

あっと思ったのは主演男優賞と女優賞で『ミスティック・リバー』のショーン・ペンと『モンスター』のシャーリーズ・セロンで、二人とも助演賞を取ってもおかしくない、演技派の性格俳優なのでした。

演じる役所もかなりエキセントリックで―ちなみにシャーリーズ・セロンは女性殺人鬼を演じているそうです―。

思うに今後大当たりする作品というのは、ひたすらファンタスティック、アニメティックになっていくのではないかと思われます。

文明国一般が疲れていてシリアスな社会派はきっと重いのでしょう。
そして映画における一抹の良心が、あまりメジャーでない地味な作品で熱演している演技派俳優たちに個人の賞をおくるようになりそうです。
『ミスティック・リバー』だって、クリント・イーストウッド監督という冠がなければ、とてもここまで知名度が高くなるとは思えませんもの。

渡辺謙の主演男優賞は夢と消え、『たそがれ清兵衛』もだめでしたが、考えてみれば、サムライに象徴される日本的情緒がマジョリティになり得るとはとうてい思えず、『ロード・オブ・ザ・リング』の対極にあり、ノミネイト自体、義理のなせるわざ、やらせではないかと思ったりしました。

アカデミー賞のたびに日本映画の不調を嘆く向きがありますが、わたしはいいんじゃないの、エンターテインメントは世界規模で楽しめれば―と思うのです。
真に日本的なものも見てみたいという気はしますが、その場合西洋人にもわかる『日本』である必要があり、これをクリアすることができるのは、『ラスト・サムライ』のように、西洋人の視点からでないと無理な気がするのです。

次なる『ラスト・サムライ』に期待です。

  

「ザ・ペスト」前後編 2004/02/18

『ザ・ペスト』は『アウトブレイク』みたいなドイツ映画で、分野としてはバイオパニックホラーというようなものだと思います。

これは前後編五時間近くの長編でかなり勇気と忍耐が必要かな、と思ったのですが、わりにスルスル見てしまいました。
フランス、ドイツ、イタリア映画はハリウッド映画のようにわかりやすくない、難解だといわれていますが、最近は違うようですね。
それともわたしがある程度のいい年で「これぞ、ヨーロッパ映画」といわれているような、ヌーベルバーグ系やゴダール、パゾリーニ、フェリーニなんかの洗礼を受けているからかもしれませんが。

一口でいうとこの映画は、主人公の細菌学者が冒頭近くで演説しているように、 「細菌は人類より先の地球の先住民で、人類が滅亡してもなお生きながらえるのだ。人類よ、傲るながれ」 ということに尽きるのです。

この線で行くので最後はハッピーエンドではありません。 どんどん人は死に続けるのです。
『アウトブレイク』みたいにダスティン・ホフマンのような存在は出てこないので、アクションもミステリーもほとんどありません。
「弱者を救済しようとしない我欲にとりつかれた人類は、死すべきだと神は判断している。だからペストは蔓延するのだ」
そう叫んで、市政に抗議のデモを続けるスラム街の牧師が警察に撃ち殺されたり、突然の解雇に腹を立てた研究員が、私怨にとりつかれてシベリアで発見した新種のペストねずみを町に放ったとわかるまでの流れなどが、アクションやミステリーといっていえなくはありませんが。

ただこうしたシーンはとりたてて強調されていないので、ぼーっと見ていると見逃してしまいます。
つまりケルン市に突然ペスト患者が出て、やがて市を閉鎖するにまでの大発生に到るまでの、医者と研究者たちの戦いが淡々と描かれているだけなのです。

…というと退屈のようですが、これが結構新鮮なのですよ。
思うに映画やテレビは最近エンターテインメントとして進化しすぎているきらいがあり、その手のよく計算され尽くした面白さは満腹気味なのではないかと思います。

例えばスピルバーグ、この人が最高によかったのはやはり『バック・トゥ・ザフューチャー』、『ジュラシック パーク』までで、今回の『テイクン』になりますと、勝手にそのネタやってろ、もうあのXファイルだって、引き上げたんだぞ、といいたくなるのです。

たしかにアル・パチーノの『インソムニア』は退屈ではありましたが、ハリウッドの映画人の中には、スーパーマン、あるいはスピルバーグ的なものはもういい、というヨーロッパ志向が育ってきているのではないかという気がします。

時代の軸き一極に傾き極めると次は逆方向へ変わるものです。
日本でもかつての名ドラマのリバイバルや、『真珠夫人』のブレイク、時代小説の人気沸騰などの現象にそれが表れているのではないでしょうか。

最後に一言、二言。
黒死病ペストは中世ヨーロッパの人口を定期的に減らした恐るべき疫病で、病気の運び屋はねずみと寄生するノミです。 それもあってあまりの蔓延ぶりに病室が足りなくなり、急遽教会が隔離病棟になります。
このあたりはなかなかいい画でした。
ペストはヨーロッパ人にとって伝説の悪魔のような歴史と伝統のある病気ですからね、教会がよく似合います。

これに匹敵する日本の、あるいはアメリカの病気って何だろうと考えまして、日本は結核でアメリカはエイズなのではと思ったりしました。
それから町がきたなくてゴミが溢れネズミがそこかしこを跳びまわっている様子が、これでもか、これでもかと映し出されるのもよかった。
ああ、中世ヨーロッパってこんな風に臭く汚かった、でもあんなにいろいろな教会文化があったんだな、と感慨がひとしおでした。
ペストはヨーロッパが地続きということもきっと蔓延の原因でしょうね。

それから冒頭から最後まで、途中まで不気味な後ろ姿しか見せないディスク・ジョッキーが出てきて、過激なセックス相談やねずみやペストの話をするので、サイコミステリーを読んだり見たりしているこちらは、つい、「犯人はこいつ」と思うわけですが、実は最後でぜーんぜん関係ないことがわかる。
そのディスク・ジョッキーもペストに罹っていて、つかのまでも恋の炎を燃やしたいと、ラジオ相談で知り合った女性に会いに行っちゃうんですから。

こういうのもハリウッドとは縁もゆかりもなくて新鮮でした。
ということはほんとうに、スターで見せる既成のハリウッド映画や、日本のドラマに飽き飽きしているのかもしれないなあ。
これからはヨーロッパものに注目したい!

  

半落ち 2004/02/04

ひさびさの映画鑑賞でした。
素晴らしいできだとか、夫婦愛の話とか、観客が泣くとかいわれていたので、あまのじゃくのわたしは敬遠していたのですが、やはり評価の高いものは見なければと、とうとう映画館へ足を向けました。

まず圧倒的に寺尾聡がいいです。この人のためにあるような映画になりました。
泣く泣くアルツハイマーの妻を殺す刑事の役ですが、さわやかな情の深さを感じさせるお父さん、宇野重吉譲りの顔も、表情の源となる演技力も、それから丸顔とは対照的な貧乏くさい下半身の痩せ方もいいです。
縄を打たれている後ろ姿のシーンが多いのでなおさらでした。
この人は若い頃に「ルビーの指輪」というヒット曲をとばした歌手でもあった人なのですが、ほんとうにすばらしい役者というのは寡作出演なのだと納得しました。

それからやはり判事役の吉岡君がいいです。
彼の役所は寺尾聡を裁く側なのですが、家にやはりアルツハイマーのどうしようもない父親―元裁判官―を抱えて介助しているという設定で、寺尾の行為に反旗を翻す『魂がなくなってしまうと、もう人間ではないとあなたは見なすのですね、だから殺せたのですね』 という下りに、はっとさせられました。

あとの出演者はどうということはありません。
人によっては演技力の低さが露呈するので出なかった方がいいという人もいました。
田辺誠一とか、井原剛志とか―。

鶴田真由はまずまずで、さすが西田敏行も悪役まで上手いです。
樹木希林は期待ほどではありません。
けれどもわたしにとって大感激という話ではありませんでした。
検事と弁護士、新聞記者が手をたずさえて寺尾聡妻殺しの真相に関わって、泣ける話を観客に見せる、という手法だからです。
これはちょっと不自然ではないでしょうかね。

『いっぱいのかけそば』というのが流行ったことがありますが、日本人の好きで好きでならない話に仕上がっているのが不満です。
ほんとうはこういう話が現実にはたくさんあって、でも見逃している、そういう今の世相や人間の心のあり方に問題があると思うからです。

癒しの映画もいいけれど、もっと鋭く衝撃的な作品が見たい!

  

デイヴ・ペルザー著
 『“IT”と呼ばれた子』三部作
2004/01/27

これはアメリカで出版され、世界的な大ベストセラーとなったもので、幼児期から児童期にかけて母親に苛酷な虐待を受けながらも、逞しく生き抜いた魂の記録です。

゛幼年期゛の冒頭で、痣だらけ、傷だらけ、おまけに両手の皮膚が灰色にべろりと垂れ下がっていた少年は、母親から引き離され、保護されることになります。

立ち直ることのできない、アルコール依存症の母親は、すでにモンスターと化しています。
その有り様を一言でいうと「IT」と物扱いされて、存在を否定され、食事もろくに与えられず、奴隷のように働かされる。
日常的に殴られ蹴られ、ナイフで腹部を刺され、アンモニアや洗剤を飲まされ、塩酸で食器洗いをさせられ、腐った食品や犬の糞を食べさせられる。
野外で眠らされるせいで凍死しかける。
当初は同情した兄弟たちも、やがて見て見ぬふりから、母親と一緒に虐待のゲームに加わるようになる。
頼みの綱だった消防士の父親は、子どもを虐待はしないものの、やはり重度のアルコール依存で妻に逆らうことができず、最後は彼を見捨てて家を出ていってしまう。

ここで興味深かったのは、主人公の少年は生まれた時から虐待されていたわけではない、という事実でした。
とかくここまでやる母親は、ろくに授乳もしないのではないかと思いやられるのですが、実はそうではなくて、クリスマスを盛大に楽しく祝う、家事にかいがいしいママなのです。
そういうママがある日から少しずつ、虐待の当事者の子どもに対して、人格を歪めていく、あるいはもともと歪んでいた性格を露呈していく、その怖さがこの話の骨頂なのです。
はじめからおかしいわけではない、それが活字ならではの表現の妙味で、しかも恐怖の真髄を表し得ているのです。
まあ、それに比べれば、周囲に虐待がばれそうになった母親が家を片づけたり、酒浸りのもじゃもじゃ頭をきれいにとかしつけて、こざっぱり着飾ったり、被虐待児の服を買ってやる、などという下りは、いかにも映像的ではありますが、たいして恐くないのです。

それからやはりこれは時代というものを考えさせられる話です。
虐待されていた少年が保護されたのは1973年のことですが、この頃は、さしもの子どもの虐待摘発先進国であるアメリカでも、まだ法律が整わず、よほどのことがない限り、虐待していない、しつけだという親の言い分が通り、子どもは親の保護下で殴り続けられるのが一般的だったといいます。

そういう時代に親から離されて施設に保護されたということは、よほどの虐待ぶりだったということになりますが、その頃のアメリカと今の日本の社会は、子どもの虐待について同程度の法整備、認識なのではないかと思います。
ただアメリカの場合、飛躍的に子どもの虐待が取り締まられるようになった理由は、虐待には連鎖が伴い、次世代へと必ずといっていいほど、『殺人をも引き起こしかねない、思いこみによるしつけ』が受け継がれることが、数々の事件を通してわかったからだといいます。
またあるいは幼い頃虐待を受けた子どもたちにはトラウマが残り続け、悪くすると非社会的人間、最悪なケースはモラルと情感の欠落した連続殺人者に成長することも、調査の結果明らかになったためです。
ですから、今後日本でも詫間守などの例を通して、具体的な虐待防止や子どもの積極的な保護が、法レベルで急進することを願うばかりです。

時代とも関連していますが、最後に虐待とは何か?の問題もこの本は提起してくれています。

母親に虐待されていて成長して主人公は、母親の母親である祖母に会って、母親が女手で二人の子どもを育て上げた祖母に、体罰を含む、厳しいしつけを受けていたことを知ります。時代的には1930年代でしょうか。
そしてそれを今でも正しいしつけと信じている祖母とはうらはらに、母親はやはり虐待と感じているのです。

この行き違いは何が原因かというと、時代が急激にさらなる文明化、民主化、経済万能化を遂げ、物質文化のまっただなかを、母親は生きる羽目になってしまったからです。
祖母は「娘が自分を長老として敬わない」と常に不機嫌ですが、もはやアメリカでは食卓のお祈りに象徴される家族制度は崩壊していて、年長者が長老扱いされることもないし、結婚の形態も変容して、女性が男性に特別に庇護されるべき存在と見なされてもいないのです。

となるとせめても子どもたちだけでも支配しようとする、絶対君主のキングになろうとする、虐待メーカーの母親には、旧時代を引きずっている滑稽さがあり、同時に哀しいものがあります。

こういう現象は日本でもわたしたち団塊の世代の女性に多く起きている、と精神科医の香山リカ先生は指摘しておられます。
八十近い自分の母親に長々電話をして、定年で家にいる夫がうざいと怒鳴り、自由にやっている子どもに手を焼くと愚痴るなど、いかに自分がわりの悪い人生を送ってきたか、その元凶はすべて母親の教育にある、結婚と母性愛を強要した結果だといってくだを巻くのだそうです。
こういう同胞たちが酔っていたり、過去に子どもを虐待していないといいのですが。

ちなみにわたしがお酒を飲まないのは、それを懸念するあまりのことだったのかもわかりません。

  

元旦に思ったこと 2004/1/02

BBCの『シャーローク・ホームズ』シリーズが面白い。

ものすごくわかりやすいトリック、人間ドラマです。
サイコミステリーをのぞく、ほとんどのミステリーは、この手の普遍のベースに、各時代のにおいと、お国柄を出して繰り返している、ということなのだと思います。

ただのどかな英国紳士ホームズたりとも、西洋人には泣きはないので、終わり方はいかなる話もクールです。

けれどもふと「こんな終わり方、昔の日本のドラマにはあったぞ、あれ『七人の刑事』じゃなかった?」みたいに思ったのです。

『ラスト・サムライ』の渡辺謙の死に方、終わり方にも共通する―つまり最近の日本人は、ハッピーエンドを万能のように振り回すアメリカンドリーム的な終わり方に、少なからず毒されているのだと思うのです。
それで非情な一面も多々ある現実から目をそむける習慣がついてしまった、特にその傾向が若年層に多いと……。

その意味ではアメリカのドラマである、『24』の悲劇的なラストはかなり勇気のいる決断だったと思います。
この上なく悲惨なことは起こりうるのだという、同時多発テロ体験も関係ありと思います。
きっとアメリカ人の国民感情にも変質が見られているのでしょう。
メディアの責任と影響は大きいものだと思った元旦でした。


追記 
ゲームでですが、あの『七人の侍』が時代劇ブームに乗ってリメイクされました。
ただし武士たちが命を張って守ろうとするのは、農民ではなく可憐な少女です。
これは何か違うのではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。

わたしは『七人の侍』が不朽の名作なのは、技術の高さでも役者たちの演技力でもなく、搾取、略奪される弱者のために、ほんの少し強い者たちが命を張れる、その死に様を生き様と納得できる、そういうことだと思うのです。