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 和田のひとりごと 

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ハリー・ポッターと秘密の部屋 2002/12/09

ハリー・ポッターの第二部『秘密の部屋』を見ました。 (一部の『賢者の石』はビデオで鑑賞済)
できれば読みたいと思っておりますが、世界的なベストセラーとなった本の方は残念ながら読んでおりません。

ホラー作家という職業柄、西洋の魔術、魔女、黙示録関係の翻訳本は何冊か読んでいます。
ただ西洋の魔術や悪魔は宗教や政治絡みなので大変むずかしく、たぶん三分の一ほどしか理解はしていません。
小説のハリー・ポッターはこうした難解にして普遍的な命題を、我々の前に易しくわかりやすく解き明かしてくれているものと思います。
だから世界中で読まれるようになったのでしょう。

さて、映画の方のハリー・ポッターですが、これにはそこまでの深みは感じられません。
といって批判しているではなくて、面白さ、素晴らしさの質が違うのです。
魔術という世界が美的で、癒しに満ちた楽園のごとく感覚的にとらえられて描かれており、楽しいのです。

わたし個人の感じ方でいうと「ああ、ハーブの世界、ヨーロッパ中世の饗宴なのだな」と、たちまち魅せられてしまいます。
まずハリーたちが学ぶ中世のお城みたいな魔法学校がすてきでしょう。

ファッションもいいです。生徒たちの黒いマントとワイシャツ、さらに赤と茶のマフラーの組み合わせなんか、ぞくぞくするほど可愛いではありませんか。
先生たちの装束の、ヨーロッパ中世期の王様や騎士、お后様や尼僧しか着ていない、独特の洋服も見せます。

そして何といっても素晴らしいのは『賢者の石』でも目立っていた饗宴のシーン。
美しくゴージャスな食べ物と食器が目白押しで、一度でいいからこんなところに招かれてみたいと思ったりします。当時はめずらしかったスパイス、クローブやシナモンの香りがプーンと匂ってきそうです。

こういうものを日本でやるとしたら、どんなものになるのかと考えてみましたら、まずは人気で第二作が作られているという、陰陽師・安部晴明の陰陽道学校。あるいは伊賀、甲賀の忍者学校。
どちらもあまりぱっとしません。地味で豪華さがない。
だめです。
むしろアラビアとか、中国とかの方がそれなりのハリーが出来そうです。

そう思うと少しつまらなくなりました。

  

日本版「ハリー・ポッター」 2002/11/10

早朝、目覚めてふと思ったのですが、「トリック」は実は日本版「ハリー・ポッター」なのです。

どちらも非現実でぐいぐいと押していって、ついには非現実の方がすてきだからこちらを現実と見なしたいと視聴者に思わせてしまう手法。
はじめは視聴者も『こんなのあり?』なんて思っているわけです。
例えば第一作目の「ハリー・ポッターと賢者の石」にしても、動物園の蛇と会話したりするシーンがはじめの方にあったり、「トリック」のどう見てもやくざのチンピラとしか見えないおかしなファッションの刑事、矢部と相棒が出てくるシーンにしても、二時間ドラマのステレオタイプの刑事ばかり見ているせいで当初はうさんくさくいい、加減にしいと感じているわけですが、そのうちに愛情深く、もっともっとやってくれ、あるいはこいつを見たいんだよという心境にさせられてしまうのです。

つまりドラマ熱は恋愛なのですよ。

思えば夏頃ヒットした昼メロの「真珠夫人」だってそうでした。
主人公の純潔がなぜか守られてしまういきさつにしても不自然極まるのですが、視聴者はその不自然さ、リアリティーの欠落に心地よさを感じたわけですもの。


政治や経済問題が深刻化している昨今ですが、創作空間に限ってはこの現代やはりファンタジーが主流になるのだろうなと思うのです。あるいは快楽に近い意外性、魔法が。

  

トリック 劇場版 2002/11/10

「トリック 劇場版」の初日に行きました。
この前映画館に行ったのはいつだったかな、と思い出してみたところ「セブン」、「コピーキャット」が思い出されました。
映画の「トリック」の観客は十代、二十代がほとんどで、土曜日ということもあったでしょうが、わたしは最年長だと自負しました。
もっとも新宿で「セブン」をみた時もそうでしたけれど。

正直二時間が長かったです。
何より往年の市川昆監督の横溝作品を彷彿させる画面には閉口させられました。
「トリック」の面白さは、村とか瓦葺きの家とかの「如何にもセットでーす、トリック、つまりはインチキでーす」という開き直ったちゃちな感じと、全編ギャグマンカのノリで通しきるいい加減さの二乗、つまり荒唐無稽を通り越したハチャメチャさなのですが、映画ではセットやロケに凝りすぎていて、テレビでの絶妙な非現実空間のバランスが崩れてしまっていました。
セット及びロケの徹底ぶりといったら、今にも「八つ墓村」が撮影できそうです。

凝ったセットやロケ、つまり自然や歴史の重みに似合うのは人間の情念なのであって、楽しくインチキなトリックではないのです。
加えて伊武雅刃、竹中直人、石橋蓮司などという名脇役の演技も生きていないで浮いてしまっている感じです。
こんなに下手にご三方が見えたこともない程です。

一方登場を楽しみにしていたばかばかしい刑事二人の存在もなぜか生彩がないのですよ。
大自然に呑まれてすべての人間が平板。
阿部寛演じる上田助教授にしても、希薄にすぎるのです。
みんなカワイソー。

それでいつ映画でなければ味わえない醍醐味がみれるのかと思っていたところ、最後の山火事と洪水がそれなのでした。
あーあでありました。
もっといい加減に作ってくれたらいいのにと思ったことでありました。

日本ではとかく映画がテレビの上にあって、テレビでヒットして映画になると完結であり、一種の『出世』のように評価されますが、テレビでなくては味わうことのできない醍醐味が認められてもいいのではないかという気がします。

テレビの「トリック」は文句なく最高。
おそらくもう実現しないでしょうが、トリック4は是非テレビでお願いします。

  

カニバリズム 2002/08/24

和田
(以下 和)
ほんとうの話です。
まずは「宇治拾遺物語」に自分の頑固な皮膚病を治すために、息子の嫁のお腹の子を所望する貴族の話があるじゃないの。 あれでは孝行のためということになっている。
この感覚はわりに長く続いて肉親の病気を治すために、身内や通りがかりの人間を殺して、肉体のパーツを奪う犯罪は明治になってもまだ起きている。
具体的にはハンセン氏病にはお尻の肉がいいとされているし、頭部全体を黒焼きにするのが万病直しの薬ともされている。 お腹の赤ちゃんを薬としてねらう話はさすがに明治期には起きていません。
でもこれは日清、日露の戦争で産めや増やせよの風潮のせいかもしれない。
それから欧米の吸血鬼伝説、あれもまた薬餌ではないかと思う。
何しろ輸血などのない時代、口から入れる血液は栄養たっぷりで何よりの栄養剤だったでしょうから。 その証拠に中国では割股といって、親が重篤な病気に罹った時、子供が腕を裂いて血を絞り出し飲ませるという民間療法が、少なくとも紫禁城の頃までは当たり前だったと聞きます。 その場合さらに親孝行がエスカレートすると、切り取った自分の肉まで提供する子供もいたとか。
親の肝臓が悪いと当然子供の肝臓が提供対象になる。
こうしたケースでは親に殉じて子供は死ぬわけ。
正確にいうなら時に宗教儀式に名を借りることもあった、かしら 。社会が背景にある食肉習慣だったんだと思うわ。
北京原人の頭部には脳みそを食べられた跡が残っているし、わたしが訪れたことのある青森の三内丸山遺跡では、子供が葬られたと思われる土器型の棺が多数出土してる。
あれをわたしは調理器を兼ねた棺で、当時生まれた子供たちは、一部を除いて多くは食べられていたんだと確信してるわ。 新生児は貴重な食料源だったんじゃないかって。
なぜなら原始社会では常に人口の増加は脅威であり、そのために自分たちの種が滅びかねないということを、彼らは本能的に察知していたため、性比を調整する必要があったのよ。
その場合新生児の男児はあまり生かされなかった これは酪農家の合理性そのものよね。 メスは子牛を生産するが、オスの役割は主に種つけだけ…。
つまり原始社会においては、オスは新生児という食料を生産することができないから、メスよりも沢山の数生かされなかったのです。
これは余談だけれど、後世、部族間あるいは国家間の戦闘を理由に男に尊敬が集まり、采配をふるうようになり、 ついには家は男で成っている、跡継ぎは男子という具合になるのは、こうした時代にインプットされて受け継がれ続けた、女性上位への怨念かもしれないわよ。
…話を元に戻すけれど、一方原始社会では当時の女性の平均寿命が、せいぜい二十代後半だとしても、 妊娠可能な年齢に達してから毎年子を産み続けたとなると―もちろん当時は避妊も妊娠の仕組みも知られていないわ―十人程度は産めたのではないかと思うわ。
女性は動物性蛋白質のよき生産者だったわけね。
マヤ文明を築いたアステカの例がいいんじゃないかしら。
最近南米やこの時代に人気が集まって、よくテレビのリポート番組が放送されるけれど、まぁ神秘の時代という印象を受けるためでしょうね。
とりわけ注目されるのはコロッセアムから出土する多数の人骨だけど、テレビの言及はそこまでなのよね。 明らかにカニバリズムが常習化していた証なんだけど、そうとまでは言えないのがテレビの規制。
そこでわたしが説明させてもらう、コロッセアム自体今でいうなら肉牛や豚の処理場。
マービン・ハリスというアメリカの文化人類学者にいわせれば、『ここで日々処理される人々は奴隷、犯罪者などであり、彼らの調理された肉が上る食膳は祭司や貴族階級に限定されていた。 たしかにこれは非道なことだが、同時に人口の調整のためにはいたしかたなかった』 ということになります。
古代国家アステカはたしかに巨大で繁栄しましたが、太陽を神と仰ぐ農業、酪農国家なのです。
酪農には最低でも草が必要でそれも天候に左右される代物。 太陽のご機嫌が悪く日照りや大雨、冷害などがふってわけばひとたまりもないわね? 養えるだけの食物はすぐに底をついてしまう。
カニバリズムには合理的な人口調整の意味もあって、常時行われ、宗教的な意味合いを持たせていたんだと思うわ。 自身の肉を神に捧げれば神の国に行けるとか、あるいは神と一体化できるとか……。 いけにえを麻薬で眠らせ、生きたままの状態で祭司が心臓を取りだし、太陽に向かって掲げた後、白魚の踊り食いよろしく、他の祭司たちと共食する話は有名よ。
宗教で同胞を食うというカニバリズムの後ろめたさをカモフラージュは日本にもあるのよ。
箱根の芦ノ湖に龍神を祀った神社があるんだけど、ここでの大祭では毎年赤飯をどっさり湖底に沈めます。 かつては赤飯の代わりにいけにえの若い女性を、龍神に差し出すために沈めていたといわれてるけど、わたしは実は沈めていたのは衣装だけだった、 あるいは食べてしまった残りの骨だけではなかったかと思われて仕方がないわけよ。
箱根の芦ノ湖といえば今でこそ名だたるおしゃれな観光地だけど、かつては人もなかなか通わぬ、気候の厳しい山岳地帯。 もちろん米作は叶わないし、住民はほぼ半飢餓状態が当たり前、という状態で暮らしていたはずだと思うから。
その他全国のいけにえの話の真実はカニバリズムだったんじゃないのかしら。
これこそ人類がカニバリズムを食に取り入れてきた証よ。食にタブーはまずないのです。 せっぱつまれば何でも食べる。
例えば沖縄では猫を韓国、中国では犬を食べる。 これは大変な薬効があって身体を暖め、特に冷えやすい老人たちにはとてもいい食材だという。
これについて欧米的常識は野蛮だというわけでしょうが、フランスでも中世の料理には猫料理があります。 被害甚大で常に狼の群れと闘っていたヨーロッパ中世の農民たちは、試しに狼の肉を食べてみた。 ところが肉食一辺倒の獣の肉は固くてまずくてしかも臭い。
それでこれは悪魔の化身だということになり、絶滅に追いやるまで徹底的に叩いたわけ。
環境破壊で山に食べ物がなくなれば、クマも野生のシカも猪も里に下りてきて田畑を荒らす。 でも彼らは絶滅にまでは追い込まれなかった。その理由は彼らの肉はまずまず美味しいから。
美味しいか、まずいかというと雑食動物の肉が一番美味しいそうよ。 草ばかり与えた牛ややぎは健康ではあるが肉が固くて青い臭いがするって言うから。
となると人間の肉、しかも女性、わりに美味しいんじゃないかしら??
江戸時代を引き合いに出すとわかりやすいと思いうわ。
江戸時代はのどかな古きよき人情と情緒の時代というイメージがあるけれど、それも大都市、江戸や上方のだけのこと。 おおむね地方は疲弊してたのね。
原因は飢餓、あるいは半飢餓。農業技術の飛躍的な進歩は結構なことだけど、伴う人口の増加が問題なのよね。 特に享保、天明、天保と続いた飢饉はショックなもの。
享保の飢饉は1732年から3年間、天明の飢饉は1781年から8年間、天保の飢饉は1833年から3年間続いているの。 いくら農業技術が進んだからといって、現代のように冷害や虫に強い品種の改良などされてないから、ようはアステカ同様お日様頼みなのね。
ちなみに享保の飢饉では、沖縄と蝦夷はデーター不足のため省くとして、全国で亡くなった人の数は18000人。 当時の全人口は10000万人だから、約五分の一が飢餓死したことになるわ。
まあそう焦らないでくださいな(笑)。
とにかくこの江戸中期に連続的に起きた、異常気候が原因の飢餓には目を覆うほどすさまじいものがあった。 特に北に位置している東北地方では凄惨そのものだった。
こうした状況を記したものに、「天明卯辰簗」―てんめいうたてやな―というものがあるの。
噂を聞いて奥州を旅した人が書いたものだけど、カニバリズムはまず家族で餓死したものを食べることからはじまるんだそうよ。 ちょっとを借りておく、貸しておくという言葉が流通していて、死体は自分の家だけでは食べず、 切り刻んで縁者、近所に分ける。
次の段階に進むと、死者が出なくてもお互いに娘盛りの下女を使いに出し合う。 下女を行かせるからというのが暗号で、用事で出されたかわいそうな下女は、相手方の敷居をまたぐか、またがないうちに、中にひきずりこまれ首を絞められて殺されてしまう。 それを裸に剥いて鴨居に吊り下げると、解体作業の準備が完了する。
下女のいない家では娘が飢えて痩せきらないうちに使いに出しあったとか。
こうして得た貴重な蛋白源は味噌漬けで保存し、大切に食べた。
そして最後の段階が耕作に使っている牛馬の処分。
ここまで来るともう生き残る望みはほとんどなくて、再び耕作ができるとも思いがたくなっており、残った家族たちの 栄養失調もかなり進んで、全員虚ろに死を待つばかりという状態に陥る。
ここで特記すべきことは、こうして多くの家族が最後の一人になるまでカニバリズムで頑張った挙げ句、 運良く生き残った者は、カニバリズムに関する記憶をすべて失うということなのよ。 文字通りけろりとわすれてしまう。
肉親、知人はもとより禁制の牛馬も食べたはずなのに、檀家寺に出かけていって供養塔を建てたり、精進の誓いを立てたりする。 その意味では不慮のカニバリズムを余儀なくされた人たちと、よく似ているのではないかと思うのよ。
ほんとうに切羽詰まった生存の選択がカニバリズムで、それ以上でもそれ以下でもないのだろうと思うのよね。
あとレクター的な現実の人物といえば、母親に似た中年婦人を切り刻んで食べていたエド・ゲイン、―彼はヒチコックの『サイコ』のモデルだけど―とか、 同性愛者で文字通り行き会った青年たちを餌食にしていた、ジェフリー・ダーマーとかね。
わたしは現代はかつての貧しい時代の飢餓とはまた別の、新しい、しかもかなり重度の心の飢餓が発生していると思っているの。
やはりこうした食人鬼の犯罪者たちもやむにやまれなかったのだろうと。 それでカニバリズムという本能が目覚めてしまう、先祖返りしてしまうのだと。
この点についてはこの程度にしかまだわかっていないわ。
そしてもっと鮮明に理解したいから、わたしはこのテーマから離れられないのかもしれないわね。

  

『ダークエンジェル』とテレビ朝日で会う 2002/7/22

『ダークエンジェル』は、あの『タイタニック』のジェームズ・キャメロン監督が指揮し作られたテレビドラマである。

時は近未来、電波テロにより経済は壊滅状態、自転車での宅配業が一般化するほど人々は貧窮し、収賄、横領が日常化している世界の、アメリカはシアトルが舞台のお話。

褐色の肌を持つ絶世の美少女であるヒロインの名は「マックス」。
宅配業に携わっているが、彼女には人並み外れた腕力、闘争力とともに隠された過去がある。なんと彼女は軍による、最強の兵士増産作戦によって両親のDNAを操作され、この世に生まれて出てきた存在なのだ。
ちなみに彼女のDNAの一部には猫のものが混じっていたりする。

そんな彼女は仲間とともに研究所を脱走、国や軍の道具としてではなく、自分が自分であるために生きようとしているが、日々追われる毎日。
一方電波テロによって荒廃してしまった世界の、悪の温床に闘いを挑む民間勢力も存在する。
大富豪の若き御曹司なのだが、彼は必要に応じて電波ジャックを行い政府や政治家、実業家、警察官などの巨悪と真実を白日のもとに曝す。
そしていつしかこの彼とマックスは同じ使命を抱いていることに気がつき、心を通わせ愛しあうようになる。

しかし追っ手の追求は執拗であり、二人の命はしばしば危うくなり、視聴者は手に汗を握る。
このあたりはさすがキャメロン心憎い。べたなラブロマンスではあるが大衆性はある。

だがここでわたしはふと頭をかしげてしまう。
本来わたしはホラーやSFは、フィクションというフィールドでの、社会や体制への批判を詰め込んだ最終兵器だと思っている。
こむずかしいことを演説されてぴんとこない場合も、こうした形式によるメッセージで今ここにある、あるいは将来迫り来ている危機をメジャーに実感させることができる、それがこの手のジャンルの強みだと思っていたのである。
Xファイル』のクリス・カーターや『セブン』のデビッド・フレッチャー然りである。

ところがこの『ダークエンジェル』にはそういったフィクション特有の、私が好きなあの匂いがしないのだ。
私利私欲に走る政治家や実業家、そして研究所の関係者などに象徴される悪と、マックスと正義漢の富豪が善として対比させられているにも関らずである。

そこでさらに最近のアメリカの映像を見渡してみた。
とにかく戦争物が多い。
スピルバーグとトム・ハンクス指揮のテレビムービー『バンド・オブ・ブラザーズ』は衆知として、ベトナム戦争に関わった兵士の勇気をたたえる傾向の『タイガーランド』、こんなものに出てほしくないジーン・ハックマンが出る『エネミー・ライン』、同じくどうしてこんなものの監督をするのかといいたい、ジョン・ウォー監督の『ウインド・トーカー』。
またこれは戦争物ではないが、ハード・バイオレンスアクションと名打たれた『トレーニング・ディ』で、極悪人役のデンゼル・ワシントンのセリフがすごい。

「キングコングも俺の敵じゃないぞ」

そこでわたしはやっと納得した。
アメリカにおける映画産業は、例えば俳優が大統領になるほど主要なものである。としてみれば当然政治色を帯びることとなる。
同時多発テロ以来アメリカはブッシュ政権のもと、国民を奮い立たせよう、強いアメリカを世界にアピールしよう、(具体的には憎き某国を討伐しよう)と燃えに燃えているのだ。
それでこうもたくさんの戦争映画、無頼礼賛の映画ができる。

『ダークエンジェル』に例の、わたしの好きな匂いがないのも、これでもかこれでもかと出てくるDNA操作による人間改造が、最強の兵士を作るためであり、そこに批判がほとんどこめられていないからである。
何とどの場面も不気味でやや猟奇的、刺激的で…ようは面白おかしいだけなのである。そうでなければマックスのキャラとロマンスですべて補われている。
もしかしたらこのテレビドラマの目的は、「アメリカはこうも優れた科学技術があり、なんでもやろうと思えばできる最強の恐ろしい国なのだぞ」と、世界を威嚇するためではないかとさえ思えてくる。

さて今その「ダークエンジェル」をテレビ朝日が買い付け、オンエアがはじまった。
果たしてテレビ朝日はどんなポリシーにもとづいてこの番組を買い、地上波で日本国民に流そうとしたのだろうかと、気にかかる。
単に視聴率だけのことだとしたら愚の骨頂であろう。

  

主人公たちの誕生秘話
加山知子誕生秘話
2002/06/15

和田
(以下和)
単なる笑い話よ。
今は昔の日活ロマンポルノ時代、加山知子という芸名のポルノ女優さんがいて、かなり有名だったそうで…。スタッフの方がそこにこだわったのね。
少なくとも理想の女性とは思っていないわね。(苦笑)
うーん、むずかしいところね。同性についてはそこまでメルヘンティックになれないわ。
なれたらハーレクイン系でばんばん売り出していると思うわよ。
加山知子については「心理分析官」が第一作目ではなくて、実はミステリー処女作の「ママに捧げる殺人」が初登場。
まあ「ママに捧げる殺人」そのものがどきつく暗い、しかし哀しいお話なんですよ。
とはいえこの作品は特に女性に夢を持っている男性たちから非難ごうごうで、この先加山知子を書き続けていくなら、多少反省も必要かと思い、彼女の暗いキャラを修正したのが「心理分析官」。
以後の「享年0・1歳」、「十戒」の加山は、凶悪な犯罪に直面して心理的に落ち込むことはあっても、何とか平静を保ち理性的に頑張って犯人追跡を続けます。
全然。 でも後でコーンウエルを読んでなるほどとは思ったわね。たしかに似ている。
ただケイ・スカーペッタは美人ではあるけれども四十代で、白髪もちらほらなんていう描写がある。 一方加山知子の方は三十代半ばでしょ。
これは年齢設定をミスったなとも思ったわ。もっと上の年齢にすべきでした。
とはいえ日本のミステリーの読者は若い人がまだまだ多いでしょ。
特に心理分析官とか、新しい分野のスペシャリストがヒロインとなると、四十代では『オバさん』ということで敬遠されかねない。現に゛オバさん゛をうたったテレビの人気シリーズものもあるくらいだもの。
それもあって三十代半ばにしたんだけれど、少し年不相応に重いかなという気ははじめからあったのよ。
それはありました。ついでにいうと水野薫にも自己投影はしているんです。 ネクラな自分は加山知子、ネアカな自分は水野薫に、てね(笑)。
それと加山知子は大好きなクリス・カーターの「ミレニアム」の主人公フランク・ブラックにも似ていると思ったわ。
この主人公は元FBI捜査官でかなりのおじさんなのだけれど、サイコパスたちとの終わりなき闘いに苦悩し疲弊ししかし続けていくしかない、という悲壮感が全面に出ている、ハードボイルドワールドの住人。
これにもまた、『Xファイル』のモルダーやスカリーとは別のキャラで共感できたのよね。クリス・カーターの好むキャラは知らずとわたしの好みと一致しているのであります。
読者あっての作家ですもの、当然です。(笑)
もっともテレビの『心理分析官 崎山知子』は演じるのがぱっと華のあるかたせ梨乃さんで、気になる暗さは払拭されていると思います。