テレビの昼ドラマで現在「真珠夫人」が大人気である。
知人が大変なテレビ通で面白いと教えてくれた。
さらに当家の娘たちが祝日だったか春休みだったかに、これをちらりと見て絶対面白いと勧めてくれた。わたしと同年配の知人はとにかく見ればわかるといい、娘たちはセリフが珍獣並みに面白いというのであった。
そこでわたしが見たのは典型的なメロドラマであった。
時は戦後ほどなく、愛し合う美男美女にして上流階級の男女がいて、その女性の方、才色兼備の華族の令嬢に横恋慕した成金の中年男が、彼女の清廉潔白な政治家である父親を経済的、社会的に破滅させ、ついには妻にしてしまうという成り行きのようであった。
ここまではよくある時代物の悲恋のパターンである。とりたてて珍しくないしそうは面白くもない。
ところがこの二人の愛し合う男女が、駆け落ちじみた小旅行をするところから違ってくる。
浴衣姿で座敷で向かい合う二人を、ちらりと見ただけのわが愚娘たちは、その後ずっと誤解していたようだが、その時男は女に真珠のネックレスを送り、女はこれにかけて自分は貞操と処女を守り通すという誓いを立てるのである。
(ちらりと見ただけの娘たちは二人の間には当然愛の行為があり、真珠にかけて守るのは性愛を含む二人だけの愛、あるいは愛の世界と考えたようである。とはいえこれが現代流のきわめて自然な解釈と思われる)
以後女は夫をはじめとする男を寄せ付けない。
完全無比な美女にして淑女であり、売春宿の主に身を落とすようなことがあっても、彼女の純潔は守られる。
無理矢理夫にレイプされそうになると、彼女を崇拝する義理の息子が父親を殺してまで守ってくれる。欲望に操られて売春宿にやってきた男たちの何人かは、女を買う目的できなく、女神とまで崇める彼女と話をする目的で通い続ける。
そればかりではない。
借金のかたにとうとう身売りするしかなくなっても、買い手の富豪は彼女は魂と肉体が渾然一体となった、好色漢でしかない自分などとはかけ離れた崇高な存在と悟り、むしろ彼女が永遠の処女であり続けることを願うようになる。
ここまで来るとこのドラマは少し異常だ、あるいは純潔をテーマにしてこだわっていると気がつく。
異常さについては他にもまだある。
運命の行き違いから男は女に愛の終わりを宣言されたと誤解、外地で知り合った女性と結婚するが、帰国して売春宿の主である女と再会する。
その後女は自分の身代わりとして、まだ客をとっていない処女の少女の水揚げを男に依頼する。
そして彼が少女の水揚げをしている時間、自分とその男とは無垢な少女を介して結ばれたと感じ恍惚となるのである。
ずっとこのドラマを見てきた視聴者は、女が純潔であることを知っているので、どうしてそのことをいわないのか、心も体も無垢ならいいじゃないか、早く何とかしろといいたくなるのだが、女は父親にも事実をその死に際して告白しないのである。
一方夫に永遠の愛を誓った相手がいることを知った妻は、その相手が経営する売春宿で娼婦として働くことで、ひそかな復讐を果たそうとするが、結局最後には露見、毒を呷って自殺してしまう。
ここでまたこのドラマの企画者、脚本家の純潔、貞操への思いが重く伝わってくる。
つまり愛を貫く方法の一つに純潔があり、それはこの主人公の女のように尊く高貴で何人も汚すことができない。
一方たとえ愛から変化した憎悪ではあっても、娼婦となって貞操を破る男の妻は醜く悲劇的にしか生きられないという図式である。
純潔=女神、娼婦=自滅。
興味が惹かれたので「真珠夫人」が入っている菊池寛全集を図書館から借りて読んでみた。
予想していた通り純潔や貞操はテーマになっていなかった。テレビのなかった時代の新聞小説のベストセラーで、活劇ばりに妖しき美女の復讐談、「金色夜叉」の女性版といった趣のもので、美女のキャラクターや結末は江戸川乱歩の推理小説に出てくる、同情できる悪女に近かった。
さらに思い出したのは太宰治の「斜陽」である。
「斜陽」といえばちょうどドラマの「真珠夫人」の設定と同じ時代に書かれたもので、敗戦国日本の生き残りの決意が示されている。
ここでの主人公の和子はやはり同じ華族の娘なのだが、妻子あるろくでなしの作家と恋愛して私生児を生もうと決心する。「斜陽」が書かれた時代は、華族はいうに及ばず良家の子女が父親のいない子どもを生むなど、世間が許さなかったにも関らずである。
とはいえこの時代の現実は明日の糧を手にするために、多くのかつての良家の子女が売春を余儀なくされていた時代でもあった。
まさに太宰の「斜陽」での若い女性たちへの提案は、従来の日本型の醇風美俗など捨て去り、肉体を持ってしても、あるいは貞操とひきかえても、とにかく逞しく生き抜いてくれという悲願であったと思われる。
太宰が生きたこの時代には他に娼婦たちの壮絶な生きざまを描いた、田村隆一の「肉体の門」などがあり、時代はやや下るが吉行淳之介の一連の娼婦物も、がんじがらめの貞操観念を世の権威主義と同一視して抵抗に代えている。ともにやむなく肉体を売る女性たちへの応援歌である。
ところがドラマ「真珠夫人」ではそれが逆転してしまっている。
とにかく純潔は女神で娼婦は自滅なのである。
とはいえここで主張されているのは、かつて太宰の「斜陽」がそうであったように、現代を生きる若い女性たちへのメッセージなのである。
ほとんど死語となってしまった、処女、純潔、貞操という言葉と概念を蘇らせることで、化粧、ファッション、エステや整形では決して完璧には近づき得ない、真の肉体美があることを示唆している。
あるいはバイオ技術が躍進するさなか、それでも肉体はしょせん魂の器にすぎないという、これまた死語になりそうなフレーズを、そっと思い出させてくれようとしているのかもしれない。
