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 和田のひとりごと 

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真珠夫人考 2002/05/31

テレビの昼ドラマで現在「真珠夫人」が大人気である。
知人が大変なテレビ通で面白いと教えてくれた。
さらに当家の娘たちが祝日だったか春休みだったかに、これをちらりと見て絶対面白いと勧めてくれた。わたしと同年配の知人はとにかく見ればわかるといい、娘たちはセリフが珍獣並みに面白いというのであった。

そこでわたしが見たのは典型的なメロドラマであった。

時は戦後ほどなく、愛し合う美男美女にして上流階級の男女がいて、その女性の方、才色兼備の華族の令嬢に横恋慕した成金の中年男が、彼女の清廉潔白な政治家である父親を経済的、社会的に破滅させ、ついには妻にしてしまうという成り行きのようであった。
ここまではよくある時代物の悲恋のパターンである。とりたてて珍しくないしそうは面白くもない。
ところがこの二人の愛し合う男女が、駆け落ちじみた小旅行をするところから違ってくる。

浴衣姿で座敷で向かい合う二人を、ちらりと見ただけのわが愚娘たちは、その後ずっと誤解していたようだが、その時男は女に真珠のネックレスを送り、女はこれにかけて自分は貞操と処女を守り通すという誓いを立てるのである。
(ちらりと見ただけの娘たちは二人の間には当然愛の行為があり、真珠にかけて守るのは性愛を含む二人だけの愛、あるいは愛の世界と考えたようである。とはいえこれが現代流のきわめて自然な解釈と思われる)

以後女は夫をはじめとする男を寄せ付けない。

完全無比な美女にして淑女であり、売春宿の主に身を落とすようなことがあっても、彼女の純潔は守られる。
無理矢理夫にレイプされそうになると、彼女を崇拝する義理の息子が父親を殺してまで守ってくれる。欲望に操られて売春宿にやってきた男たちの何人かは、女を買う目的できなく、女神とまで崇める彼女と話をする目的で通い続ける。
そればかりではない。

借金のかたにとうとう身売りするしかなくなっても、買い手の富豪は彼女は魂と肉体が渾然一体となった、好色漢でしかない自分などとはかけ離れた崇高な存在と悟り、むしろ彼女が永遠の処女であり続けることを願うようになる。

ここまで来るとこのドラマは少し異常だ、あるいは純潔をテーマにしてこだわっていると気がつく。

異常さについては他にもまだある。

運命の行き違いから男は女に愛の終わりを宣言されたと誤解、外地で知り合った女性と結婚するが、帰国して売春宿の主である女と再会する。

その後女は自分の身代わりとして、まだ客をとっていない処女の少女の水揚げを男に依頼する。
そして彼が少女の水揚げをしている時間、自分とその男とは無垢な少女を介して結ばれたと感じ恍惚となるのである。

ずっとこのドラマを見てきた視聴者は、女が純潔であることを知っているので、どうしてそのことをいわないのか、心も体も無垢ならいいじゃないか、早く何とかしろといいたくなるのだが、女は父親にも事実をその死に際して告白しないのである。

一方夫に永遠の愛を誓った相手がいることを知った妻は、その相手が経営する売春宿で娼婦として働くことで、ひそかな復讐を果たそうとするが、結局最後には露見、毒を呷って自殺してしまう。

ここでまたこのドラマの企画者、脚本家の純潔、貞操への思いが重く伝わってくる。
つまり愛を貫く方法の一つに純潔があり、それはこの主人公の女のように尊く高貴で何人も汚すことができない。
一方たとえ愛から変化した憎悪ではあっても、娼婦となって貞操を破る男の妻は醜く悲劇的にしか生きられないという図式である。

純潔=女神、娼婦=自滅。
興味が惹かれたので「真珠夫人」が入っている菊池寛全集を図書館から借りて読んでみた。
予想していた通り純潔や貞操はテーマになっていなかった。テレビのなかった時代の新聞小説のベストセラーで、活劇ばりに妖しき美女の復讐談、「金色夜叉」の女性版といった趣のもので、美女のキャラクターや結末は江戸川乱歩の推理小説に出てくる、同情できる悪女に近かった。

さらに思い出したのは太宰治の「斜陽」である。
「斜陽」といえばちょうどドラマの「真珠夫人」の設定と同じ時代に書かれたもので、敗戦国日本の生き残りの決意が示されている。
ここでの主人公の和子はやはり同じ華族の娘なのだが、妻子あるろくでなしの作家と恋愛して私生児を生もうと決心する。「斜陽」が書かれた時代は、華族はいうに及ばず良家の子女が父親のいない子どもを生むなど、世間が許さなかったにも関らずである。
とはいえこの時代の現実は明日の糧を手にするために、多くのかつての良家の子女が売春を余儀なくされていた時代でもあった。
まさに太宰の「斜陽」での若い女性たちへの提案は、従来の日本型の醇風美俗など捨て去り、肉体を持ってしても、あるいは貞操とひきかえても、とにかく逞しく生き抜いてくれという悲願であったと思われる。

太宰が生きたこの時代には他に娼婦たちの壮絶な生きざまを描いた、田村隆一の「肉体の門」などがあり、時代はやや下るが吉行淳之介の一連の娼婦物も、がんじがらめの貞操観念を世の権威主義と同一視して抵抗に代えている。ともにやむなく肉体を売る女性たちへの応援歌である。

ところがドラマ「真珠夫人」ではそれが逆転してしまっている。
とにかく純潔は女神で娼婦は自滅なのである。

とはいえここで主張されているのは、かつて太宰の「斜陽」がそうであったように、現代を生きる若い女性たちへのメッセージなのである。
ほとんど死語となってしまった、処女、純潔、貞操という言葉と概念を蘇らせることで、化粧、ファッション、エステや整形では決して完璧には近づき得ない、真の肉体美があることを示唆している。
あるいはバイオ技術が躍進するさなか、それでも肉体はしょせん魂の器にすぎないという、これまた死語になりそうなフレーズを、そっと思い出させてくれようとしているのかもしれない。

  

小説と映像の狭間にて 2002/05/11

和田
(以下 和)
最近気がついたんだけど小説を書く人たちの多くは、自分の感性によって導かれる世界や美学、 あるいは信念、思想にのみ興味がある、もしくはそれが至上の世界と信じている、そういう傾向が結構強いと思う。
わたしもあながちそうではないとはいわないけれど、もう少し野次馬的なのよね。
隣りは何をする人ぞ的な気分が常にあって、好奇心の網を知らずと張りめぐらせている。
うーん、あれぱまず感性ありきよ。 わたしたちの高校時代というのは全共闘の最盛期とだぶっていたでしょう。 高校生はまだ闘士ではないけれど予備軍ではあった。
だからあの時代映画作りをしたということ自体、感性が一つの時代固有のレジスタンス、もっと気楽にいってしまうと流行を選びとったように思います。
とにかく高校は出なければいけないから、誰もかれも寺山修司のいうように「書を捨て野に出よう」というわけにはいかなかった。
あの頃はとにかく前衛という言葉が尊いものでしたから。
前衛的な映像美も追究された。パゾリーニやフェリーニ、なつかしいものです。
ただ個人的には前衛と映像美の追求はミスマッチではないかと思い、ピカソよりもダヴィンチを、バゾリーニよりも「ルードウイッヒ・神々の黄昏」のヴィスコンティが好みですけど。
ともあれ当時わたしが感心したのは、名門の公立や私立の人たちの映画は八ミリ映画とはいえ、ものすごいテクニックが駆使されていたこと。 技術的なことではわたしたちのは遠く及ばなかった。 全くの子供騙しといっていい。
ただ内容でいえば時代を予見して勝った!なんて思っている。
負け惜しみもこれだけ年季が入るとすごいでしょ。(笑)
やはり感性に誘われてというしかないわよ。 当時はまだトマス・ハリスは「羊たちの沈黙」を書いていなかったしね。(笑)
わたし国文学科の卒業ということもあって、つい何年か前まではハリウッド映画にも外国のミステリーにも無縁でしたのよ。その程度は音痴といっていいくらい。
だから当時影響を受けたとしたら、芥川の晩年の作品『人を殺したかしら?』や三島の初期の作品『中世における一殺人常習者の哲学的日記の抜粋』。
二人とも最後は自殺した作家。 自分を殺人者にならぞえているのは特異な閉塞感からの脱却のように思える。
あるいは芥川は来るべき時代、プロレタリアート、三島はアメリカナイズされていく戦後の日本に対して、戸惑い自己の文学の破滅の予感を抱いていた。
つまりどんな天才も大きな時代の波には逆らうことができない、時代は最強にして絶対の殺人者であるということ。
これを「共犯者」に置き換えてみると、最後に狂気へと逃れる、従来の理由ある殺人を行ういじめられっ子は旧時代の典型で、 「危険な遊び」や神戸の酒鬼薔薇を想わせる、美少女サイコパスは好むと好まざるとかかわらず訪れ来る、新時代の象徴ということになる。
こういう悲劇的な変換を何となく感じ当てたのがあの作品だったのだと思う。 古きよき時代はいずれ終わるだろうと、当時は純文学全盛期だったけど、どこかで感じていた。
当然(笑)。作家志望でも脚本家、映画監督志願でもなかった。
文豪なんて言葉が死語でもなく存在して、偉い人のお墨付きがなければ、本なんてなかなか出してもらえない時代だったし、 そんな大それたものになれるなんて思えなかった。
キーワードは「よい子できる子〜」と、T・ハリスの「羊たちの沈黙」。
大学院を卒業してかれこれ十年ぐらい家業をやってて、テレビとも小説とも映画とも無縁な仕事と子育ての日々が続いていて、長女のいわゆるお受験の罠に落ちて、 憤懣やるかたない気持をぶつけたのが「よい子できる子…」、ちょうど新人類なんて言葉が流行した頃でした。
それがドラマの原作になって書く仕事が舞い込みはじめた頃、「羊たちの沈黙」に出会いました。
わたしの場合は小説が先で何といってもハンニバル・レクターが魅力的で、ぽーっとしていたらほどなくアンソニー・ホプキンスが演じてさらに熱が高まった。
こういう犯人が出てくる小説書きたい、犯人の心理をたくさん書きたいと思いました。 お受験への憤懣と同じか、それ以上のテンションで思い続け、さらに自分というものの不可解さを見つめて、私小説的な心情も含めて書いたのが「ママに捧げる殺人」。
ローレンス・サンダースの「無垢の殺人」へのオマージュでした。
というよりも映像の方が表現しやすい内容ということなんじゃないかしら。 あるいはこれだけは映像で速やかに理解してもらいたいという悲願…。
それととにかく小説を書こうと決心したあたりから、わたしの場合外国のミステリーやコリン・ウイルソンなどの文献をやたら読んだり、ビデオなどで映画を見まくったわね。
それで気がついたことが一つあって、外国の小説の映像化と日本のそれとは決定的に違うということ。 つまり外国の映画は日本のものほど原作から離れていないのよ。
それはなぜかというと外国の小説が宗教とか思想、民族の問題を、ストーリーテーリングの中に見え隠れさせているのに比べて、 日本の小説はとにかく情緒的、抒情的なのよ。
これはたぶん短歌、俳句などが国風文化で受け継がれてきた歴史的産物ね。 『美しき日本のわたし』なんていう文章を書いていた、川端康成なんていい例でしょ。
片やもう一人のノーベル賞作家大江健三郎は思想的な作家だけれど、ストーリーテーリングについてはむしろ否定気味の純文学然たる作風でしょう。
そういう作品はドラマにはならない。 ドラマ性を加味したら別のものになっちゃうからね。
ようするに「源氏物語」の雅やあはれ、芭蕉のわび、さび路線か、ストレートに生に近い形で思想を打ち出す、 そして不条理きわまりない現実をつきつける、そのどちらかが日本人の特色ある文芸世界なんじゃないかしら。
だけど例えば川端作品にしろ、情緒、抒情ほど受け取る人によって千差万別、一つの映像として表現するのがむずかしいものはないと思うわ。 もとよりわたし、自分には細かな感情の襞とか、雅、あはれ、わび、さびを描く能力はないと、見切りをつけていたの。
若い頃作家を目指そうと思わなかったのもそのせいね。
書いてみた私小説、たしかにいただけなかったもの。(笑)
一つ自惚れてみると個の確立があるからで、いい方を変えるとひどくわがままだからよ。 わたし自身、多少の美徳と大いなる悪徳に満ちた人間だと思っている。(笑)
それともう一つ大きく自惚れてみると、そのせいで映像とも親近感や親和性があるんじゃないかな。
例えば今回の「心理分析官 崎山知子」についても、細部まで追っていけばそうは原作に忠実ではないんだけれど、大変満足しているの。 それはなぜかというと母性に対するわたしの思いが完全に表現されているから。
結局書きたかったのは猟奇殺人でもなければ、警察の捜査法やトリックなどではないのです。 ミステリーの形はテクニックにすぎません。
ところでこの次は好きな映画とか俳優の話を軒並みしたいわ。
あなたの趣味も聞きたいし。